飛行機の操縦士であった小生は、何回か緊急事態を経験したことがあります。
小生の乗っていた哨戒機には、十数名が乗り組んでおりますが、緊急事態に各搭乗員は多かれ少なかれ、「死」と「生」を意識します。
我々搭乗員は、安全に飛行作業を繰り返すことにより、良きにつけ悪しきにつけ慣れ、初めて飛び上がった時の「死に直結する恐怖」が次第に麻痺していきます。これを戒めるかのように飛行中の緊急事態は、自分自身はもとより、各搭乗員を生きている現実の世界に戻してくれるといえます。
緊急時になると、躾けられているとはいえ「死」を意識するのでありましょう、機内交話器からまったく搭乗員の声がなくなり、また、静まりかえった機内に、操縦士の挙動を見つめる乗組員の「生」への執着とも思える視線だけが存在する瞬間があります。
ここに、「生」と「死」の連続性を見るのと同時に、「死生観」とは人間が「死」を意識した時、それを積極的に自己制御し、ある種の意思決定、即ち「覚悟」を決めるとき、自己の内面から浮かび上がってくるものだと思っています。
この「死の覚悟」は、あくまで現実の中に生きる者としての心の持ち方を意味し、また、そこには自己はもとより、妻子、両親、兄弟等との絶対的な別れを含んだ悲哀が存在し、本質的に悲壮なものと言えます。つまり、死を覚悟した者は、「生」へのこだわりを残しつつも、もはや執着を越えたところがあり、従って、そこには単に泣き崩れるのではなく、悲哀を受け止めた悲壮さが存在すると言えます。
よって、この覚悟は外的な環境等が直接影響を与えることにより生まれるものではなく、人間の内面から生まれてくるものを意味し、より真実な自己に目覚め、「死」という現実から目をそむけることなく、いかなる事態にも自己の生き方を持ちつづけることを教えており、ここに軍人としての「死生観」を見いだすことができると考えるからです。
したがって、某氏の合理的な考えに基づく亡命論と、ウクライナ大統領をはじめウクライナ国民が戦うためにウクライナ国内に戻る考えは、全く次元の異なるものと思料します。
会長 小松龍也
(「今日の自衛隊」2022年4月13日 より)
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